キービジュアル

ご由緒

ご祭神とご神徳

ご祭神は、本宮、里宮共に天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、伊邪那岐大神(いざなぎのおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)を主神とし、配神として稲荷大神、八幡大神をお祀りしています。
江戸時代以前より三光大神として、『日、月、星』をお祀りする神社といわれており、ご祭神を総称し、三皇熊野大神(さんこうくまののおおかみ)と言われています。
『六郷郡邑記』(享保15年 1730)には、当社は「三光宮」との記述があり、また菅江真澄の『遊覧記』(文化12年 1815)にも、「竹原三光宮トテ日月星ヲ斎クニ云々」と記述されており、古くより、三光大神と呼ばれております。
また、ご神紋の三つの輪は、三光大神としての、『日・月・星』の三つの光を現し、古来より神前に額ずき、ご祈願を受けられると、運命光輝くといわれております。ちょうど当社は、秋田藩主、佐竹氏の久保田城より、南西の裏鬼門の方角にあたり、また、牛島は参勤交代に向かうための交通の要でありました。
当社には、文久年間(1861~1864)に制作された秋田藩主・佐竹氏の五本骨月扇紋が付された獅子頭《猿田彦大神として奉齋された》が伝わっており、古くより、鬼門・方位除け、九曜星厄除と星の巡りによる災難除けの神社としての崇敬があり、特に厄除開運、八方除の御利益があるといわれています。
また、古くより『むすび』の神として、縁結び、子授け安産等、私たちの人生に結びついた御利益があるといわれています。

本宮

《御由緒など》
創立年月日不詳なれども、再建は桓武天皇の延暦年間(延暦23年 804年頃)征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が竹原三光の紙に祈誓して高清水の丘に向かって矢を放ったと言われており、賊を討った報賽として社殿を再建したという。
境内には田村麻呂将軍の杖に根がついたと言うブナの大木があり、戦前まで、地上八尺位の所から、こんこんと水が流れ、『霊水の大木』といわれ、霊水は眼病に効くと言われていた。
また、現在は枯れてしまったが、田村麻呂将軍の弓の弦を掛けたと言う松が、『弦かけの松』と言われ、参道中央にあったことが知られている。

慶長5年(1600)に本宮の御分霊を受け、熊野神社(現在の里宮)が遷座される。江戸時代以前より三光大神として『日・月・星』をお祀りする神社と言われており、『六郷郡邑記』享保15年(1730)には、当社は「三光宮」との記述があり、また菅江真澄の『遊覧記』文化12年(1815)にも、「竹原三光宮トテ日月星ヲ斎クニヤ云々」と記述されている。

ちょうど当社は、秋田藩主、佐竹氏の久保田城より南西の裏鬼門の方角にあたり、また牛島は参勤交代で江戸にむかうための交通の要でもあり、秋田藩主、佐竹氏の五本骨月扇紋が付された文久年間(1861~1864)に制作された獅子頭《猿田彦大神として奉齋された》が伝わっている。

他にも江戸時代後期に奉納された狛犬《嘉永7年(1854)》、御神鏡《安政2年(1854)》、手水鉢《文久2年(1862)》、三皇大神宮の碑《元治元年(1864)》がある。
安政2年の御神鏡には、『竹原三皇宮』と始めて三皇という名称が記されており、この当時に、三光から三皇という社名に推移したものと伺われる。

明治7年村社に、明治33年(1900)に本殿と拝殿が再建された。
明治41年(1908)日神饌幣帛料供進神社に指定される。
明治44年(1910)、大野中道上段無格社八幡神社を合祀。
明治44年、古川端無格社神明社、同年村社熊野神社(現在の里宮)を合祀し、三皇熊野神社と名称が変わる。
昭和48年(1973)に幣殿を増改築。
平成5年(1993)に本宮社務所を新築。
現在の社殿は平成16年(2004)に本宮御鎮座1200年、里宮御鎮座400年を記念し御社殿を全面改築、客殿を新築したものである。
平成27年、本宮境内整備事業完工 (参道敷石工事、手水舎新築)『霊水の井戸』を復元。

境内社として三皇稲荷神社をお祀りしている。
尚、境内には、ぶな、けやき、えんじゅ、いちょう等の大樹に、元治元年(1864年)の三皇大神の碑をはじめ、保食神、安藤和風の句碑などあり、遠近の人々から三皇さん、竹原さんのもりとして親しまれている。

本宮社殿の概要

三皇熊野神社/本宮一、述べ床面積
○新社殿(29.18坪)
・ 本殿(5.34坪)
・ 幣殿・拝殿・向拝(23.84坪)
○その他(35.78坪)
・ 客殿(22.53坪)
・ 玄関・回廊(13.25坪)
合計(64.96坪)

建築形式について
社殿は、向拝・拝殿・幣殿と本殿がつながった権現作り。
本殿は、神明造り、千木内削、鰹木六本、屋根銅版葺き、軒付けは、ネズコ材を積板した木羽板葺き風仕上げになっている。 幣殿・拝殿は、入母屋形式、向拝は唐破風軒。後面は切妻形で本殿につながっている。屋根銅版葺き、軒付け五段仕上げとなっている。
客殿は、切妻造り妻入り、回廊・玄関は、切妻造り平入り、屋根は共に銅版葺き。

御用木について
本殿・拝殿の御用材には、殆ど国内産を使用。
丸柱は木曽檜、拝殿外側の浜縁高欄、建具などには、雨や虫に強いネズコ材(木曽五木のひとつ)、壁板・敷板・長押は秋田杉、上り框にはタモ材、桂材、本殿浜縁には青森ヒバ材、向拝の柱・高梁・海老高梁には欅材。
階(きざはし)のみ外材のスプルス材を使用している。

鎮守の社

三皇熊野神社の社について

境内の植生について

三皇熊野神社の本宮の境内は、出羽丘陵の端のなごりがあり、平地にもかかわらず、エンジュ大木や、きたこぶし、ブナ、ケヤキなどの里山によく見られる樹木に囲まれてた鎮守の杜になっています。

また、8月頃には、毎年オレンジ色のゆりの花に似た狐の剃刀(彼岸花の一種)が境内に見ることが出来ます。

エンジュについて

槐(エンジュ)は、『延寿』とも言われ、古くからから日本家屋に、床柱用あるいは鬼図として必ず一本は用いられた銘木です。それは悪魔を追いはらい、福を招くと云う縁起のよい木だからです。
(残念ながら腐朽し、倒木の危険があったため、令和4年8月30日に伐採しました。)

狐の剃刀(きつねのかみそり)について

キツネのカミソリはヒガンバナ科の多年生草本球根植物である。明るい林床や林緑などに自生し、早春のまだ他の草が生えないうちに、ヒガンバナに似た狭長の葉を球根から直接出して球根を太らせ、多くの草が生い茂る夏頃には一旦葉を落としてしまう。

概ね新盆前後(8~9月)になると茎を30~50cmほど伸ばし、先端で枝分かれした先に橙色のいくつかの花を咲かせる。
本宮境内の社務所の裏や、稲荷社前に多く自生している。

里宮

旧熊野神社

明治時代の『羽陰温古誌(ういんおんこし)』に、弘化3(1846)年 社殿が消失とあり、また、昭和5年の牛島の大火で、文献、史料は失われてしまったが、古くからの伝承によると抑々(そもそも) 当里宮(旧熊野神社)は、現在の三皇熊野神社本宮(三皇神社)の合殿(あいどの)としてあったものが、慶長五(1600)年にこの地に遷座されたものである。

藩政期には、参勤交代で往還する羽州街道の久保田城下の入口の地をお守りする神社として、そして、牛島村の中心である旧下丁(しもちょう)の産土(うぶすな)様として、崇敬を集めた神社である。天明年間(1781~89)には、如意(にょい)輪(りん)観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)像(通称 メロリ観音)が安置され、伝應山(でんおうさん)熊野(くまの)権現(ごんげん)と称された。修験龍宝院が別当を務め、毎年、3月17日に観音の祭り、9月9日には熊野権現の祭りが斎行され、近郷近在から多くの参詣者で賑わっていたと伝わっている。

また、当里宮は、久保田三十三観音霊場の第七番札所のお堂と称されていた。息災、財、智等の諸願成就のお堂として久保田城下からも崇拝されていた。現在の社殿も当時のお堂の建築様式を受け継ぎ、神座を幣殿に置き、幣殿と拝殿が一体となった、本殿のない社殿となっている。明治になって神仏分離令により、観音菩薩像(通称 メロリ観音)は、近在の曹洞宗兜率山寶(ほう)袋院(たいん)に遷された。明治44(1911)年に三皇神社と合祀(ごうし)され、三皇熊野神社里宮(さとみや)として現在に至っている。

現在の社殿は、昭和55(1980)年、三皇神社と熊野神社が合祀されて70年を記念して建立されたものである。br 当里宮には、秋田藩藩主佐竹家の家紋である五本骨月丸扇紋を額に付した獅子頭が、胴の内側に文化元(1804)年と墨書された胴くり抜き太鼓と共に所蔵されている。毎年寒中に行われる三皇熊野神社の獅子舞行事は令和3年3月に秋田市無形民俗文化財に指定された。
里宮鳥居から幣殿と拝殿が一体となった社殿で、幣殿に神座を設け、「お堂」と呼ばれた当時のように本殿がないのが特徴である。

平成12年、屋根銅板葺き替え
平成25年、改装工事完工

社殿概要

建坪:約100坪
千木内削:鰹木五本
屋根:銅版葺き
鳥居:朱塗りの両部鳥居
昭和63年(1988)年

御大典記念の狛犬

平成2年(1990)年
奥が里宮社殿

牛島の撫で牛

旧河辺郡牛島村の鎮守の三皇さん、地域の益々の発展と皆様の健勝を祈念し、牛島の象徴としての牛の石像、台座に十二支を配した「牛島の撫で牛」を里宮に建立
(令和2年10月 御大典記念事業)

霊水の大木

ブナの大木~「逆木」について

ブナの大木~「逆木」について

病気平癒の御神木~木肌に触れ健やかに。
三皇神社には、霊水の大木というブナの古木があります。「逆木(さかさぎ)」ともいい、この逆木には、こんな言い伝えがあります。
延歴22年(802年)坂上田村麻呂が蝦夷征伐(えぞせいばつ)に北上した折についてきた杖が、この環境に芽生えた御神木であると言われています。
それは、逆木というらしく、ふつうの木は、枝がいくつも分かれているが、逆木は、根がいくつも分かれて成長してしまった。そのために、その根元のくぼみに年中僅かばかりの霊水がわいていましたと謂われていました。

現在は枯れてしまいましたが、霊水で、目を洗うと、目の病気が直ったという言い伝えがあり、現在も霊水の大木に触って、病気平癒、健康長寿のご利益を受けられる方が多くいらっしゃいます。

ブナの木について

ブナの樹は、五月ごろ黄色の花を開きからに包まれた実を結び、その実は食用や油用になると言われています。 また、ブナの実は約7年に1度しか、成らないと言われています。
ブナの樹が花を咲かせるのは約50年生になってからです。実を付けるにはさらに30年くらいかかり約80年生くらいだと云われています。80年かかってやっとブナの樹は大人の仲間入りします。成人になるのも、寿命を迎えるのも人間の4倍の時間をかけてゆっくりと成長していることになります。

ブナの樹の寿命は、200年~300年くらいといわれていますが、昭和8年当時、80年以上前の写真で、すでに大木であるので、霊水の大木は、おそらくそれ以上であると推測されます。

ブナの実について

ブナは実、約1センチくらいの大きさで、周りの皮が三稜形で三角のクリの実に似ていて、古来から食用になっていました。
ソバの実ににも似ているので、ソバグリなどと呼ばれています。
ブナの実は、大変発芽率が低いといわれています。
ブナの実を水に浸し、沈んだものに白い実がつまっており、浮いたものは中身がありません。
水に沈んだブナの実を冷蔵庫に入れ、3月頃鉢に植えると発芽率が上がるそうです。

ブナの御神木の譲木(ゆずりき)について

三皇さんの本宮のブナは、平成8年、平成13年の秋に沢山の実をつけてましたが・・・次の春、境内で新芽を確認できたのはごく僅かでした。

現在、新芽をポット苗から大事に育てた御神木の子供たちが、御神木の譲木(ゆずりき)として、本宮境内で、風雪耐え成長を続けています。

獅子舞

獅子舞神事

お正月の寒の入りから 除災招福を祈る

お正月の寒の入りから14日ころまで、町の平安に各家の除災招福を祈り、牛島町内の家々をまわりお祓いする行事獅子舞神事が伝わっています。

現在、獅子舞神事は、獅子舞保存会により継承され、正月小寒の日の夕刻、里宮にて、獅子舞事始祭を斎行、その後約10日間、牛島の旧町内を廻り、最終日本宮を参拝し、神事を終了いたします。

獅子舞神楽は、町内を廻り各家々の玄関にて舞う「家々獅子」、神前や床の間に上がって舞われる『上がり獅子』があり、しめ太鼓、すり鉦、笛が曲を奏で、獅子頭の舞手と裾もちが獅子舞を行います。

家々獅子(ややじし)

町内を廻り各家々の玄関や庭先で舞う家々獅子(ややじし)は、先触れのあとお祓い、そのあと獅子が舞います。
その後、神前で家内安全・厄病祓を祈願した獅子舞のおふだをお渡しします。

獅子に頭をかじってもらうと風邪をひかないといわれています。
おふだは玄関の門口に貼ります。

上がり獅子(あがりじし)

神前は各家の床の間で舞われる「上がり獅子」。
右の写真は、毎年、干支の生まれ年の厄除祭には、獅子舞保存会により獅子舞神楽が奉納され、参列者をお獅子がお祓いをいたします。

現在の獅子頭と神楽太鼓

三皇熊野神社には、文久年間(1861~1864)に制作された秋田藩主・佐竹氏の五本骨月扇紋が付された獅子頭《猿田彦大神として奉齋された》が伝わっており、現在神事に使われている獅子頭は、平成6年に角館町の加藤竹蔵氏により奉製されたものです。

また、獅子舞に用いられているしめ太鼓の胴は、文化元年(1804年)のもので、現在も現役で使われております。

伝統の継承~獅子舞保存会

獅子舞保存会では、獅子舞奉仕者を募集中です。
伝統ある獅子舞神事に興味のある方は、どなたでも参加できますので、社務所(里宮)にお問い合わせください。

獅子頭~その特徴~

さて毎年正月、松の内から数夜、ピーロロ、ピーロロピ、ピー、ドコドコドン、ドコドコドコ、ドコド、という、あの特徴のある笛や太鼓、すりがねなどのリズムとともに行われる獅子舞いの行事は、新春の牛島町を飾る風物詩として親しまれておりますが、この獅子舞に用いられる獅子頭(ししがしら)は熊野神社に古くから伝えられていたものです。製作年代は、おそらく幕末のころではないかという以外、他に詳しいことはわかりませんが、この獅子頭には、頭(あたま)と歯(は)と額(ひたい)にきわだった特徴が見られます。

まず、獅子頭には角があるのが普通ですが、これにはそれがないことです。また、かつてあったのが落ちたというような痕跡も見当たりません。

次は、歯が黒いことです。獅子頭の歯は大体金色なものですが、黒いのはいわゆる「お歯黒」で、これは女獅子であることを示しております。ここから、あるいはもう一体男獅子があったのではないか、それが何らかの事情で別れ別れになったのではなかろうか、などとも考えられますが、はっきりしたことはわかりません。

三番目には、五本骨扇の紋が施されていることです。
五本骨の扇章は、よく知られているように秋田藩主佐竹家の定紋です。その藩主の定紋が、どうしてここについているのでしょうか。
もっとも、これと似た例は他にもないわけではありません。
たとえば、昔から子授かりの神様として名高い仙北郡協和町境の唐松神社に、秋田県最古の蛇頭神楽面として県の有形文化財にもなっている獅子頭がありますが、その額にも五本骨の扇章が刻まれているのです。聞くところによれば、かつて佐竹の殿様が唐松神社の氏子だったことがあり、それと何か関係があるのであろうということです。たしかに、秋田三代藩主佐竹義処が唐松神社を領内第一の崇敬社として厚く信仰し、延宝8年(1680)に下宮を建立した他、毎年獅子神楽(ししかぐら)を全戸に巡回させたことが多くの文献や記録に残っております。したがって佐竹家が氏子だったということが事実かどうかはともかく、獅子頭の額に五本骨扇章が施されているのは、それなりに一応納得ができます。

また、北秋田郡比内町扇田の神明社でも幔幕(まんまく)に五本骨の扇章が染め抜かれており、なお同神社の大神輿(おおみこし)は藩主佐竹家からの賜り物で、これには、当時の扇田の若者100人が久保田へやって来て直々拝領し、かけ声も勇ましく担いで帰って行ったという余話までがついております。
ちなみに、南部藩に対する鹿角口の要衛で、一説に、神明社は万一の場合に備える秋田藩の隠し武器庫だった…などという話などもあります。
となると、昔の牛島村は久保田町の南口に位置し、いわば城下ののど元ともいうべき重要地点に当たります。どこかしら扇田と相通じるものが感じられ、そこからいろいろと想像されるところもありますが、しかし神社や仏閣の建物、祭具に藩主の定紋を許したり、紋章のついた什器を賜ったりするといったことは領民慰撫の政策上などから、ひとり秋田藩のみならず、全国どこの藩でもまま見られたことで、あながちそう珍しいことではありません。
しかし、それはそれとして、全く何の意味も理由もなく、この獅子頭の額に五本骨扇章が施されているはずはないと思われます。改めて牛島の歴史を考える上からも、大いに興味のあるところです。また文化財としても、そのはっきりした製作年代や、でき得るならば製作者の解明までを含め、いずれ機会を見て専門家によるきちんとした調査・鑑定がなされるべきであり、それは今後の大きな課題でもあるといえます。

消えた獅子頭<牛島シモノ若者>

…ここに一つのエピソード伝えられております。
昭和33年ころまで、三皇熊野神社(本宮)の鳥居をくぐった社殿の左側に御神輿堂(おみこしどう)があり、獅子頭は、御神輿と一緒にその中に収められておりました。
今日と違い、大きな樹木うっそうと生い繁っていて草深く、神社のまわりは、まだそんなに人家がなく、人通りも少なくて寂しい所でした。
大正の末か昭和の初め頃のことといいます。妙な噂が流れて来ました。開(ひらき)にSさんという祈祷師がおりましたが、そのSさんの夢まくらに毎晩<熊野さん>の獅子頭があらわれて「早く迎えに来てくれ」と訴えている、というのです。不思議に思って御神輿堂を開けて見ますと、獅子頭がなくなっていたのでした。

驚いて八方手分けをして探したところ、間もなく、ある村の神社にしまわれていることがわかりました。どういうわけでそうなったのか、事情ははっきりしませんが、その村の若者たちが正月になると、獅子頭を携えて近くの村や部落をまわり、小遣い稼ぎをしていたのでした。

さっそく、返してくれるよう交渉をはじめましたが、「これは質屋にあったのを買った物で牛島の方とは関係がない」といって、なかなか応じてくれません。それを何度も粘り強く交渉を続けた結果、ようやくこちらの言い分が通って取り返すことに成功したのでした。

だれが彫ったのか、現在、獅子頭の口の中に素人の手で<牛島シモノ若者>という7文字が刻まれております。ずうっと前からこの7文字が彫られていて、それが動かぬ証拠となって取り返すことができたものか、それとも「また盗難にあっては大変だ」というので、取り返した後になってから彫ったものか、今は知る人もなく、また確かめようもありませんが、とにかく、地域に伝わる貴重な文化財を守ろうという、下丁の若者たちの心意気が切々と胸に迫ってくるような7文字です。

(平成8年 三皇さんのお獅子 吉田昭治氏著作より)

秋田市無形民俗文化財に指定

『三皇熊野神社の獅子舞行事』が、令和3年3月26日、秋田市無形民俗文化財に指定されました。
同3月28日には神社恒例の春祭に併せ、文化財指定書交付式が行われ、指定への経緯の説明の後、獅子舞を披露しました。
これを契機に更に伝統文化の継承継承に努めてまいります。

文化財指定に至る経緯を秋田市役所のHPで詳しく紹介しています。
下のリンクからPFDでご覧いただけます。

三皇祭

三皇祭について

7月11日···例祭

三皇さんのご縁日の例大祭です。

7月第2土・日曜日···三皇祭(土:宵祭/日:本祭)

お神輿渡御、曳山行事等の奉納行事が行われます。また、こども達による巫女舞やお囃子の奉納もあります。

※ 詳しい三皇祭の情報は『三皇祭特設ページ』にてご覧ください。

年中行事

三皇さんの年中行事

1月1日歳旦祭年の初めに、皇室の弥栄と、国の平和と繁栄、皆様の健康・安泰を祈願します。
寒の入り
(1月6日頃)~
獅子舞神事寒の入りから約10日かけて笛太鼓の音色と共に獅子が氏子町内を練り歩きます。
令和6年
2月3日
どんど祭・節分祭古くなったお札やお守りに感謝し、お焚き上げします。
同時に無病息災・厄除開運を祈り豆撒きをします。(家庭用品などの景品もあります)
2月最終日曜日干支厄除祭12年毎にめぐってきた干支に当たり、これまでお守りいただいた神の恵みに感謝しより健康であれかしと神明に除災招福を祈るお祭りです。
3月28日祈年祭(春祭)「とし」は穀物のこと。五穀豊穣と国家の安泰を祈る祭りです。
3月下旬勧学祭新・小学一年生を対象としたお祭りです。真新しいランドセルを持参していただき、学業成就・身体健康・交通安全などを祈願します。
7月11日例祭三皇さんのご縁日の例大祭です。
7月第2土、日曜日三皇祭
(土:宵祭 日:本祭)
お神輿渡御、曳山行事等の奉納行事が行われます。また、巫女舞の奉納や、子供たちによるお囃子も奉納されます。
7月31日夏越大祓知らず知らずに犯している心の罪・穢、不純なものを人形を以って祓い清めます。
十五夜
(9月下旬~10月下旬頃)
観月祭十五夜の夜に月を眺めながら、雅楽や巫女舞などを奉納します。
11月11日新嘗祭(秋祭)新穀をお供えし、収穫を神様に感謝申し上げるお祭りです。
12月31日年越祭・師走大祓知らず知らずのうちに犯している罪・穢を祓い清めるとともに、一年間平穏無事にお守りいただいた神様に感謝申し上げるお祭りです。

※上記お祭りに参列希望の方は神社までお問い合わせください。

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